人と靴の歴史
A.人類の誕生(猿から人間への進化と足の変化)
人類は、アフリカ大陸東部の草原地帯で猿の仲間から分かれ進化したと考えられています。
恐竜時代、人類や猿の祖先は、ねずみほどの大きさで四足歩行の哺乳類だったといわれています。かれらは恐竜に比べて極めて弱い存在でしたので身を隠す場所が多い森林に生息圏を求め、次第に、安全(地上に比べて)な樹上で生活するようになります。
彼らの子孫は長い年月をかけて樹上生活に適合するためその体形を変化させてゆきます。前足と後足は枝や幹を移動しやすいように、それらを把握しやすい形状に変化し、把握面には滑り止めの役目をする『指紋」が形成されます。尾は枝に巻く付ける様変化し、その巻き付き面には『尾紋』か形成されます。樹上生活では枝にぶら下がるかたちで身体を支えることが多くなるため、下肢よりも上肢がより大きく発達し、頭に近い前足は器用に動く『手』に進化してゆきます。
やがて、急激な環境変化が全地球規模で起こります。諸説ありますが、巨大な隕石の落下による大量の粉塵が大気圏を覆い地表の気温を急激に低下させた『隕石落下説』が現在もっとも有力です。その結果、気温変化に順応性の低い『変温動物』の恐竜が絶滅し、気温変化に順応性の高い『恒温動物』の哺乳類が勢力を伸ばしはじめます。しかし、猿の仲間は森林の樹上生活圏を維持し続け、地上に戻って生息することはありませんでした。地上には既に他の肉食哺乳類が進化、大型化して生息していたためだといわれています。
その後、アフリカ大陸東側の大地に地殻変動が起こり、一部の猿の仲間の生息域に変化が起こります。
原因は地球内部にありました。
地球は『コア(地芯)』とそれを取り巻く『マントル層』、『地殻』の3層からなる天体です。
『コア(地芯)』は重金属の塊で地球の芯を形成しています。
『マントル層』は高温の溶岩(マグマ)の層で常に対流を繰り返しています。
『地殻』はマントル層上部が冷えて出来た薄皮のような層です。
地殻がマントル対流(マントル層内のマグマの対流)の影響を受け地球表面を僅かずつ移動していること(プレートテクトニクス)は広く知られています。
大古のアフリカ大陸東部ではこの影響で地殻が東西に引き裂かれ、南北に走る大きな裂け目(大地溝帯)があらわれはじめます。この裂け目によって猿の棲む広大な原始の森林は緩やかに長い年月をかけて東西に大きく分割されてゆきます。そして、分断された森林の間には乾燥した渓谷が出現し、徐々に拡大してゆきます。
渓谷の東側では渓谷の拡大につれて降雨量が徐々に減少してゆきます。 それに伴い森林は緩やかに乾燥化して草原に変化してゆきます。 森林の東側に生息していた猿の仲間は『緩やかな森の草原化』による高木の減少で徐々に地上に追いやられてゆきます。この変化は非常に緩やかなもので、猿たちが地上生活に順応した形に身体に変化して行くのに十分なものでした。このとき、器用に動く『手』を歩行のため用いず、もっぱら後ろ足だけで立つようになりました。そのため、後ろ足は『直立歩行』用の『脚』と『足』に変化します。『尾』は必要性がなくなり退化してゆきます。 やがて『尾てい骨』として体の内側に隠れ、名残を留めます。
直立歩行を始めた猿たちは、移動の手段としての役目から完全に開放された『手』により『道具』を作ることと、それを使うことを憶えます。そして、『道具』の使用が彼らの脳を急速に発達させてゆきます。
この時期が『人類の創成期』であると言われています。
猿から人への移行期(約600万年前)の人類を考古学上『猿人』といいます。
彼ら猿人は徐々に進化を続け、原人(約150万年前)、旧人(約7万5千年前)を経て,およそ3万年前にほぼ現在の人類と同じ体型の新人になります。人類はこの過程を通じ徐々に『直立歩行』のための洗練された体型を培ってゆきました。
およそ1万年前の遺跡からは農耕の痕跡が発見され、その後の四大文明の基礎である定住と農耕が行われ始めた事が判っています。
B.履物の誕生
人は猿から進化しました。3万年前の『新人』の時代に『現代人』とほぼ同じ骨格になります。そして、その骨格は現在もほとんど変わっていません。そして、足の基本的な構造もこの頃からほとんど変化していません。
人類は手を使って道具を造り、道具を使って狩猟をし、やがて一部の動物を家畜化し、穀類などの植物を育てることで食料の一部を貯蔵する技術を手に入れます。豊かな生活環境により彼らの人口は急速に増加します。すると、彼らの棲んでいる草原の生産性では彼らの人口を支えきれなくなります。このとき、新たな生活空間を求めて彼らの一部が草原を離れ、他の環境に移動し始めたことは容易く想像できます。
最初はさほど極端な環境変化の無い場所へ移り住むことが出来たでしょう。
しかし、その様な場所はすぐに埋め尽くされてしまいます。やがて人類はより苛酷な生活環境の地域にも移動をはしめます。このとき人間は『樹上生活』から『地上生活』へと長い時間をかけて身体を順応変化させるのではなく、様々な道具を発明し使用するこ酷な生活環境を自分たちの本来の生活環境(人類誕生の地域)に近似させるように努めました。
暑さや寒さから身体を保護する『衣類』を発明し、先鋭な岩石や灼熱の砂から足を保護する『サンダル』『靴』『下駄』などが『原点の環境』と『現在の環境』のギャップを埋める道具として発明されました。それらは移住して言った先の環境に合わせ改良され現在も使用され続けられています。
『サンダル』はその原型がエジプト文明の遺跡から発見されています。
『下駄』は紀元前3000年頃の中国の遺跡から発見された田下駄(柔らかな水田に足をとられない様に履かれた下駄)が現在のところ最古のものとされています。日本でも稲作の伝来により紀元後200年頃の弥生時代後期の遺跡から同様の田下駄が出土しています。
最古の『靴』は紀元前3000年ほど前に現在のイラク南部に栄えたシュメール文明の遺跡から発見された陶器製の靴(祭礼や神事などで神に奉げるため作られたものと推測されています。)にまで遡ることができます。その形状から、当時の人々が外部の環境から足を守るため、この頃すでに足全体を包み込む形の履物を履いていたであろうことが推測されます。
C.靴の分化(機能的な靴、装飾的な靴)
文明が発達するに連れ、階級制度が確立し履物にも儀式や祭事のための装飾性の強いものが現れはじめます。儀式や祭事のための靴には実用性よりも権威の象徴のための小道具として人目を引くことや神秘性が求められます。後にこれらの靴は特権階級の虚栄心や富の象徴として舞踏会や戴冠式のための特別な靴として分化してゆきます。このことにより靴は機能を追及して使い安さや履き心地を重視した機能的な靴の仲間と儀式の権威を裏打ちすることや見かけの美しさを強調することだけを目的とした装飾性重視の靴の仲間に二極化してゆきます。
a.機能的な靴の仲間
実用的な用途を追及して発達してきた靴の仲間は、その用途からおおむね足に優しく履きやすい(後に詳しく解説いたしますが脱ぎ履きし安い靴とは違います。)構造に進化してきました。
安全靴 (作業を効率的に行うとともに重量物の落下から爪先を保護する目的のため一切の装飾性を廃し、機能性を追及した靴の代表例)
NIKE AIR MAX '95 一時期のスニーカーブームでそのきっかけを作ったスポーツシューズの一つです。 ランニングという仕事のため極限まで機能を追及した靴だということができます。
b.装飾性重視の靴の仲間
パンプス(Pumps)は近世ヨーロッパで御者用の靴として作られました。インステップが大きく切り取られ、かかとの低い形状にデザインされ、長い時間座席に座り馬車を運転するのに適していました。名前の由来は御者が馬車のブレーキをかけるとき、ロックをを防ぐためブレーキペダルを何回かに分けて踏込む様子が水を汲む手押しポンプの動きに似ていたため『ポンプする靴(PUMPS)』から来ています。足を長く見せる効果があるため、パーティードレス用の靴にデザインが転用されたといわれています。やがて、脚をより長く見せるためヒールの高さを競うようになります。
ローファ(Loafer)は男性貴族の伝統的な室内履きとして、書斎での執務などで使用されておりました。 長時間椅子やソファーに座っているとき、紐やベルトでインステップ(足の甲)を強く締め付けると前足部の血行を妨げます。そのためローファはインステップ部をやや開放し圧迫を取り除くよう作られています。 その後、貴族の社交の場であるクラブの隆盛とともにインステップ部に装飾(キルト、タッセル、ペニーポケットなど)を施しクラブシューズとしても使われるようになりました。 ローファの語源はゴロゴロして仕事をしない怠け者(Loafer)に由来します。働かない者、動かない者のための靴と考えていただけば良いでしょう。いずれにしても、専ら書き物をしたり歓談したりすることをするために作られた靴で、本来歩くことを目的に作られた靴ではありません。
パンプスやローファは産業革命以後、台頭したブルジョア(庶民の有産階級)が彼らの地位の向上のため貴族を真似てつくった社交界(クラブ組織の成立と社交場としての舞踏会)を通じて庶民の社会に入ってきます。 庶民生活の向上とともにクラブや舞踏会で使われる衣類や靴のデザインがファッションとして大衆化してゆきます。
c.両者の本質的な違い
実用的な目的で作られる靴は、長時間履いて疲れず快適に仕事やスポーツの出来る靴でなければなりません。装飾性を重視した靴は自分の為の快適さよりも、むしろ、他からどのように見られるかと言うことを第一義とし、多少の痛みをこらえても履く靴に仕上がっています。
実用性を重視した靴は足の構造と機能を考慮して作られた靴であり、装飾性重視の靴はこれらと反対に足の構造と機能を軽視し、見かけの美しさを追求した靴だと考えていただければ良いでしょう。
従って、足の構造と機能を理解することが良い靴を選ぶ決め手となります。足を知らずして『足に良い靴』を見つけだすことは出来ないのです。
D.日本に於ける西欧型の靴の歴史
洋式の革靴を履いていた最初の日本人は坂本竜馬だといわれています。
幕末期、将軍家の権力は弱まり、少しずつ鎖国の実行力も薄れてきます。そのため、外国との非公式な交易が各所で行われ西欧の文化が少しずつ日本に入ってくるようになりす。竜馬は当時最新の技術であった写真術によりその姿を銀板に残しましたが、足元には革靴が写っていました。
明治維新になり鎖国制度が撤廃されても一部の人々を除き、靴を履く習慣は一般化しませんでした。明治以前の日本では日本家屋の構造と密着した下駄、草鞋、草履を中心にした独自の履物文化が成立していました。日本家屋は一部の土足スペースのみ履物で出入りできるだけで、殆どのスペースでは土足厳禁でしたので家への出入りの度に履物を脱ぎ履きする煩わしさから日常の履物にはおもに下駄と草履が利用されました。
庶民が靴を履く機会は徴兵による軍隊生活の期間にほぼ限定されていました。 残念なことに日本の軍隊では天皇制の不文律(天皇からの支給品たる軍服、銃器、軍靴などの御下賜品に文句を付けてはならない。)により、兵士からのクレームを受け入れず『粗悪な靴』を改良無しに長年生産し支給してきました。 明治維新の時期には近代的な軍隊を組織するため、真摯に海外の新しい技術を取り入れていた日本政府と軍部は日清、日露の勝利を境に精神主義的になり、次第に思考が硬直化してゆきます。先の大戦のとき前線の要望に答えてたびたび軍靴を含む装備の改良に努めたアメリカ軍と、兵士の意見を汲み取らず不完全な装備を兵士に強要した日本軍では両者の間に大きな戦力差を生んだと言われています。
私見ですが、このことが庶民に革靴は『履き心地が悪いもの』との印象を与えたことも革靴の普及を妨げる一因となったのではないかと推察してます。
第二次世界大戦を敗戦で迎えた日本は進駐軍指導の社会制度改革をきっかけとして急速に『アメリカ化』が進み、1950年代中ごろから男性を中心に革靴を履くことが一般化します。
最初はひも付きの革靴が主流を占めていました。当時は自家用車の保有率が非常に低く、専ら公共交通機関と徒歩が最大の移動手段でしたので、十分に足をサポートすることのできる靴は必需品でした。
女性はまだ外出着に和服が一般的でしたので、下駄や草履を履いていました。
子供達は『前ゴム』と呼ばれるズック靴が広く普及していました。
60年代にはようやく戦前の生活水準にまで立ち直り、衣料ではジーンズが一般に普及し始めます。70年代にはモータリゼーションの到来とともに個人の自動車保有率も急速に上昇を始めます。日本人のライフスタイルは急速にアメリカナイズされ、若者の履物もほぼ欧米人と同じ水準のものに変わってゆきます。
IVYブームでローファが大衆化し、以後革靴の主流はローファに代表されるスリップオンタイプに移行してゆきます。70年代後半にはアメリカで健康志向からジョギングブームが起こり、これに触発される形で日本ではスニーカーブームが起こります。これ以後、80年代中半まで、高品質のスポーツシューズが若者のステータスシンボルにまでなってゆきました。
80年代後半からのバブル経済とともにスポーツシューズは大衆化してゆきます。同時期、ブランド志向からファッションブランドとともに本格的な高級革靴も国内で本格的に販売されるようになりました。90年代に入るとバスケットのスーパースターマイケルジョーダンの登場とともに『エアジョーダン』に代表される限定生産のスポーツシューズが人気を集め、若者のファッションとしてジーンズとスニーカー(スポーツシューズ)は定番化します。1995年のエアマックスでスニーカーブームは頂点に達します。
日本は90年代後半にはアメリカに次ぐスポーツシューズ市場に成長します。
市場規模で世界第二位のとなった日本ですが、残念ながらシューズの使い方(履き方)に関しては先進国では最低の水準にあります。
高品質で高性能な靴が大量に輸入されていながら、それを正しく使う技術が輸入されていないのが現実です。
正しい使い方に関する情報がユーザーに提供されていないため、本来の性能が発揮できないばかりが、本来の耐久性も維持できず、短い使用期間で壊れてしまった靴を見ると心が痛みます。
大半の日本人が靴の価格に割高感を感じるのは、実は、正しい使用法を知らないため靴を壊してしまっていることを自覚していないことに起因すると考えます。